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白石城 一国一城令の例外とされた伊達氏家臣・片倉氏の居城

<城郭データ>
■ 所在地:      宮城県白石市益岡町
■ 築城主:      白石氏
■ 築城年:      鎌倉時代
■ 主な城主:   白石氏・蒲生氏・上杉氏・片倉氏
■ 廃城年:      明治8年(1875年)
■ 城郭構造:   梯郭式平山城
■ 遺構:         石垣・移築門・移築蔵

 

<歴史>
白石城は「後三年の役」の後である寛治年間(1087年〜94年)奥州藤原氏の一族である刈田経元が源義家から刈田郡を与えられ、白石の地に築城したのが始まりといわれている。
その後、刈田氏は白石氏と改姓し、白石城を本拠として同地を統治していたが、戦国時代に伊達氏の傘下へと組み込まれていく。
1591年(天正19年)伊達政宗は「葛西大崎一揆」への関与を疑われ、豊臣秀吉の命によって葛西・大崎旧領に移封となり、岩出山城を本拠とする。
白石城には会津に入封した蒲生氏郷の家臣・蒲生郷成が城代として入城する。
1598年(慶長3年)蒲生氏に代わって会津に移封された上杉景勝の家臣・甘糟景継が城代を務める。
1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」の際に「白石城の戦い」が勃発し、伊達政宗上杉景勝から白石城を奪取し、政宗の叔父・石川昭光が城代として入城する。
1602年(慶長7年)政宗の側近・片倉景綱が城主となると、江戸幕府の一国一城制の例外とされ、明治維新まで約260年間の片倉氏の居城として存続した。

 


<登城記録>
2019年5月18日(土)
11時32分

船岡城から車で約30分で、白石城跡である益岡公園の西端の無料駐車場に着いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

白石城の天守の建っている本丸からは少し離れているが、ここから徒歩で移動する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
白石城の南西部にあった沼の丸。

現在は野球場となっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

沼の丸から遊歩道を通って二の丸跡へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二の丸跡は本丸跡と通路を挟んで接しているため、ここまで来ると三層の天守の姿が見えてくる。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天守の石垣は「扇の勾配」と呼ばれる美しい曲線を描く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二の丸跡と本丸跡の間に残る「馬場跡」 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二の丸の北側には白石城の鎮守「神明社」が建っている。
創建は平安時代初期の807年(大同2年)で征夷大将軍・坂上田村麻呂により勧請されたのが始まりとされる。その後は、当時の領主である藤原秀衡・蒲生氏郷・上杉景勝などに庇護され、江戸時代には伊達氏家臣の片倉氏の崇敬を受けて白石城の鎮守として栄える。
1899年(明治32年)の大火で社殿の大部分を焼失するが、翌年に現在の地に本殿を再建し、1906年(明治39年)には拝殿が造営された。
現在の社殿は1935年(昭和10年)に改築したものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天守台と土壁の石垣は石の積み方に違いがある。
天守台の部分は加工を施さない自然石を用いた「野面積み」であり、土壁の土台部分から大手門にかけては積み石の表面を加工して整えて石の隙間を少なくした「打込接ぎ」で積まれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
1995年(平成7年)木造で復元された「大手一の門」から本丸跡へ入る。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大手一の門と同じ時期に木造で復元された「大手二の門」

ここから天守へ向かうには、反対側へ180度回って進路転換しなくてはならない設計になっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大手二の門をくぐると綺麗に整備され本丸跡。

当時はここに本丸御殿が建っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸跡の中央付近には「片倉景綱公頌徳碑」が建っている。

景綱は1557年(弘治3年)米沢八幡神主の次男として生まれる。才智をもって伊達政宗の近習となり、後には重臣として伊達家を支えたとされる。武勇で知られる伊達成実と並び「伊達の双璧」と呼ばれた。

小田原征伐の際には政宗に対して、豊臣秀吉との対決を避けて小田原へ参陣するように主張した話は有名である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

天守の横に鐘堂の建物が復元されている。

鐘は白石市内の傳来寺にて現存しているとのこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天守前に残る本丸井戸。

蓋がされているため、井戸の状況はわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幕府に対する遠慮から、天守ではなく「大櫓」と呼ばれた層塔型の三重三階の天守。
1823年(文政6年)に片倉宗景によって再建された姿を1995年(平成7年)に木造で忠実に復元。
全国的にも数少ない木造復元天守の1つ。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸南西端にあった二層の未申櫓跡。

礎石のようなものが残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸の南にある裏御門跡。

現在は簡素な門扉があるであるが、当時はこの土塁の切れ間に二層の櫓門が築かれ、本丸の搦手を厳重に守っていた。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸南東隅に建てられていた二層の辰巳櫓跡。
櫓台の石垣の一部が残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12時28分

白石城の登城を終えて次の予定の米沢城へ向かう。

 

小太郎 * - * 00:53 * comments(0) * -

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