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福井城 徳川家康の次男・結城秀康が築いた越前松平家の居城

<城郭データ>
■ 所在地:      福井県福井市大手
■ 築城主:      結城秀康
■ 築城年:      慶長6年(1601年)
■ 主な城主:   越前松平氏
■ 廃城年:      明治4年(1871年)
■ 城郭構造:   輪郭式平城
■ 遺構:         石垣・土塁・堀

 

<歴史>
徳川家康の次男・結城秀康は「関ケ原の戦い」の戦功により越前北ノ庄68万石に加増移封され、翌年の1601年(慶長6年)天下普請による福井城の築城に着手した。
秀康は越前松平家を興し、北ノ庄藩(福井藩)の初代藩主となり、1606年(慶長11年)に福井城が完成すると、江戸時代を通して越前松平家の居城となった。
秀康の嫡男・松平忠直は1623年(元和9年)乱行を理由に豊後国大分に配流され、代わりに忠直の弟・松平忠昌が50万石で入封した。
忠昌は「北ノ庄」の地名を「福居」と改め、さらに後に「福井」と改名される。
1686年(貞享3年)福井藩6代藩主・松平綱昌が発狂を理由に除封となり、前藩主の松平昌親松平吉品と改名して福井藩を半減の25万石で再任される。
その後、福井藩の石高は32万石まで回復するが、天災や度重なる一揆により、藩の財政は困難を極めた。
徳川御三卿の田安家からの養子である幕末の16代藩主・松平慶永は、橋本左内らを登用して藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人に数えられた。
慶永は藩論を勤王に統一し、戊辰戦争では明治新政府に加わり官軍の一翼を担った。
1871年(明治4年)明治維新によって廃藩置県が断行され、福井城は廃城となる。

 


<登城記録>
2020年10月6日(火)
16時45分

一乗谷城から福井市の中心地にある福井城へ移動。
福井城は本丸を中心に二の丸・三の丸と同心円状に堀が巡らされた輪郭式の縄張りであり、徳川家康の次男の居城に相応しい壮大な城郭であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
現在は周辺の市街地化が進み、本丸跡の石垣と堀が残るに過ぎない。
本丸跡には福井県庁や県警察本部などがあり、公園としても整備されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
本丸南西隅にあった坤櫓跡。
築城当時は二重の櫓であったが、1669年(寛文9年)の大火によって焼失後、三重櫓に改築された。
その後、天守の再建許可が得られなかったことから、福井城を象徴する建造物として明治初期まで存在した。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸南側の大手門跡に架かる御本城橋。
当時は木橋であったが、現在は石橋で架け替えられており、人の往来も多い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内堀に架かる御本城橋を渡って瓦御門へ。
瓦御門は本丸の正門にあたり、当時は枡形門の構造になっていた。
現在は石垣は破却され、二重の櫓門が建っていた南側の石垣のみが残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

瓦御門から入ってすぐ右側には、結城秀康公の石像が建てられている。

坂本城の「明智光秀像」や三木城の「別所長治像」などのように同じパターンの石像は他にも多く存在するが、残念ながら戦国時代を必死に生き抜いた武将の威厳のようなものは全く感じられない。
結城秀康は徳川家康の次男で、母は側室の「お万の方」。
1584年(天正12年)「小牧・長久手の戦い」の和議の条件として豊臣秀吉の養子となり,さらに1591年(天正19年)下総の名族・結城晴朝の養子となった。
1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」に際しては宇都宮に留まって上杉景勝の西上に備えた。その後、松平姓に復姓して福井藩主として越前国67万石を領有した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸跡の北東隅には立派な天守台が残っている。
築城時の四重五階の連結式望楼型天守は、1669年(寛文9年)の大火で焼失した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
その後は幕府から天守の再建許可が得られず、本丸南西隅の二重巽櫓を三重に改築して天守の代用とした。

左側が天守台で右側が小天守台。石垣は「切込接ぎ」で積まれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天守台の北側半分には礎石が残っており、ここに四層五階の壮大な天守が建っていたと思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天守台の対面にある小天守台の一部は、1948年(昭和23年)の福井地震で一部が崩壊している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天守台の傍らには「福の井」と呼ばれる井戸が残っている。
この井戸は結城秀康が福井城を築く以前からこの地にあり、「福井」という地名の由来となったという説がある。
また、この井戸には城外へ通じる抜け道があるという伝説もある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸の西側を守る枡形門形式の山里口御門。

築城当時からこの場所に構えられていたが、1669年(寛文9年)の大火で焼失した。

後の再建時に、積石の向きを変えて石垣が積み直されていたことが判明した。

2018年(平成30年)山里口御門の復元整備が完了した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

屋根の材料として、石瓦が使われている。
石瓦は福井市中心部の足羽山で産出される緑色凝灰岩で「笏谷石」と呼ばれる。
石質は柔らかくて加工が容易で、色調も美しいことが特徴。

福井城では、主要な建物の屋根瓦には笏谷石が用いられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山里口御門は、内堀に架かる御廊下橋によって本丸の西側の西二の丸・西三の丸に通じていた。

屋根付きの橋であった御廊下橋は、歴代の福井藩主が西三の丸の御座所から本丸へ移動する際の専用の橋として使われた。
福井城の築城400年を記念して、2008年(平成20年)に復元された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
本丸の北側にある北不明御門。
本丸に3ヶ所あった入口の一つで搦手口に相当し、有事の際にはここから城外へ脱出できるようになっていた。
瓦御門や山里口御門などと同様に、二重の櫓門が建つ桝形門の構造であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北不明御門から本丸跡を出ると直ぐに、本丸北東隅の艮櫓跡が見えてくる。
鬼門除けのために、北東部分の石垣を内側に凹ませて角を無くしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸南東隅にあった巽櫓跡。

坤櫓と同様に築城当時は二重の櫓であったが、1669年(寛文9年)の大火によって焼失後に三重櫓に改築され、福井城を象徴する建造物として明治初期まで存在した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

17時30分

北不明御門から内堀に沿って歩き、艮櫓跡・巽櫓跡を眺めながら半周して御本城橋まで戻る。

天下普請で築かれた石垣はすばらしいが、石垣と近代建物の組み合わせには違和感を感じてしまう。丁度、日没時刻になったので、福井城の登城はこれで終了。

 

小太郎 * - * 21:21 * comments(0) * -

一乗谷城 織田信長の侵攻により灰燼に帰した越前朝倉氏の居城

<城郭データ>
■ 所在地:      福井県福井市城戸ノ内町
■ 築城主:      朝倉氏
■ 築城年:      南北朝時代
■ 主な城主:   朝倉氏・前波吉継
■ 廃城年:      天正3年(1575年)
■ 城郭構造:   山城
■ 遺構:         土塁・堀・門

 

<歴史>
一乗谷城は足羽川の支流である一乗谷川沿いの谷にあり、東西を山に挟まれた天然の要害で、山峡部の城館と背後の山城で構成される。
築城時期は不明であるが、南北朝時代には朝倉氏が本拠としていたようである。
朝倉氏は但馬の古代豪族・日下部氏の流れを汲み、南北朝時代に越前国守護となった斯波高経に従って、越前に入部した朝倉広景を起源とする。
1467年(応仁元年)「応仁の乱」が勃発すると、戦乱を避けるために多くの公家や僧侶などの文化人が集まってきたため、一乗谷の文化は飛躍的に発展した。
7代・朝倉孝景(敏景)の頃には、一乗谷は全盛期を迎え、人口が1万人を超える越前国の中心地として栄えた。
8代・朝倉氏景は越前国守護の斯波氏や守護代の甲斐氏を追放して、越前国を実質的に支配した。
1567年(永禄10年)11代・朝倉義景は後の室町幕府15代将軍・足利義昭を一乗谷に迎えたが、上洛を望む義昭に対して義景には上洛の意思はないため、義昭は織田信長の協力を求め美濃国に出国する。
義景は北近江の浅井長政と同盟し、1573年(天正元年)長政の援軍として2万の軍勢を率いて出陣するが、信長に奇襲されて越前へ撤退中に「刀根坂の戦い」において壊滅的な被害を受けてしまう。義景は一乗谷に帰還するが、織田軍の追撃を受けると詰城に籠城することなく、一乗谷を放棄して越前国大野へ逃亡する。
一乗谷の城下は織田軍によって火を放たれて灰燼に帰し、一族の朝倉景鏡の裏切りにより義景は自刃して朝倉氏は滅亡した。
信長は最初に織田方に寝返った功績により、朝倉氏の旧臣・前波吉継を越前国の守護代に任じて一乗谷の館に置いた。
1574年(天正2年)朝倉氏の旧臣・富田長繁が土一揆を扇動して一乗谷を攻撃し、吉継を敗死させる事件が起きる。
1575年(天正3年)信長が再び越前に進攻して一揆勢を殲滅し、信長より越前国49万石を与えられた柴田勝家は本拠を北ノ庄城に移したため、一乗谷は次第に廃れていくことになる。

 


<登城記録>
2020年10月6日(火)
15時10分

JR福井駅からレンタカーを借りて、約25分で一乗谷の入口付近に着いた。
一乗谷は東西方面と南側を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害にある。
一乗谷の北と南に城戸を設けて、周辺の峰には城砦や見張台を築いた広大な要塞都市であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

九頭竜川支流の足羽川のさらに支流である一乗谷川。

この川に沿った一乗谷に、侍屋敷や町屋が建ち並ぶ城下町が形成されていた。

現在の状況からは想像もできないが、往時は一万人以上の人口を擁していたとされている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

城下町の防御のために、一乗谷の南北の入口に土塁を築いて城門が構えられていた。
北側は下城戸と呼ばれ、枡形虎口である門跡には重さ10トン以上の石が積み上げられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

城戸の外側には幅10メートル、深さ3メートルの堀があり、かつては一乗谷川と直接繋がっていたと考えられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

下城戸から少し進むと、当時の町並みを平面で復元した区画がある。

ここでは、復元された井戸跡が至る所に見られる。
戦国時代には共同で利用することが一般的であった井戸が、一乗谷では各戸に一つの井戸があったようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一乗谷遺跡の象徴とも言える朝倉館跡が見えてくる。

その背後には標高473メートルの一乗城山があり、福井平野を一望できる山頂には朝倉氏の詰城が築かれていた。
しかし、織田軍の侵攻時に朝倉義景はこの詰城に籠城することなく一乗谷を放棄して逃亡し、一度も戦闘に使用されることなく廃城となった。
一乗城山には登山ルートが整備されているが、今回は時間の都合で山城には登城はしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝倉館跡の北側に、朝倉氏の御前水と伝わる瓜割清水が残っている。
現在も水が湧出しており、生活用水として利用されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝倉館跡の正面には、唐破風造りの屋根を持つ唐門が建っている。
朝倉氏の遺構ではなく、後に朝倉義景の菩提を弔うために建立された松雲院の正門と伝わる。
現在の唐門は江戸時代の中期に再建されたものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

門の表側には朝倉氏の「三ッ木瓜」の家紋が彫られている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

門の内側には「五三桐」の家紋が彫られている。
これは豊臣氏の家紋でもあり、豊臣秀吉が朝倉義景の善提を弔うために寄進したとも伝えられている。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

唐門から館内へ入る。
朝倉館は一乗谷の中心に位置し、朝倉氏の当主が居住した館である。
東側の背後には山城があり、他の三方は土塁で囲まれ、その外側には幅約8メートル・深さ約3メートルの堀が巡っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

広大な敷地からは規則正しく並んだ礎石が発見されており、多くの建物が建っていたことがわかっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

花壇跡。
東西9.8メートル・南北2.8メートルの長方形の花壇が発見され、現在では日本最古の花壇の遺構とされている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝倉館跡の南東の隅にある朝倉義景公の墓所。 

1576年(天正4年)に村人の建てた小祠が始まりで、1663年(寛文3年)福井藩主・松平光通によって現在の墓所が建てられたという。

義景は織田信長との戦いに敗れ、一乗谷を脱出して越前国大野へと逃れたが、1573年(天正元年)8月20日、従弟の朝倉景鏡の裏切りによって六坊賢松寺で自刃へと追い込まれた。享年は41歳であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝倉館跡を見下ろす高台にある湯殿跡庭園。

戦国時代の気風が漂う荒々しく無骨な石組みが特徴である。
4代・朝倉孝景の時代の回遊式林泉庭園で、一乗谷に残る庭園の遺跡の中では最も古い作庭とされる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一乗谷の南の入口に構えられた上城戸と呼ばれる城門跡。
高さ5メートル・長さ50メートル程の土塁が残存しているが、巨石は残っていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

16時20分

乗谷朝倉氏遺跡はかなり広大で、予想以上に時間を要してしまったため、ここで訪問を終了することになった。特別名勝4庭園の中で諏訪館跡庭園と南陽寺跡庭園が未訪問で、復元された城下町の町並みも見学できなかった。

山頂の詰城には登城するつもりであるので、その時にもう一度訪問することにして、次の予定の福井城へ向かう。

  

小太郎 * - * 21:20 * comments(0) * -

河原城 羽柴秀吉が「第一次鳥取城攻め」で布陣した要衝の城

<城郭データ>
■ 所在地:      鳥取県鳥取市河原町谷一木
■ 築城主:      武田高信
■ 築城年:      永禄年間(1558年~1570年)
■ 主な城主:   羽柴秀吉
■ 廃城年:      不明
■ 城郭構造:   連郭式平山城
■ 遺構:         曲輪・土塁・竪堀

 

<歴史>
河原城は1994年(平成6年)山頂に模擬天守が建設された際に公募によりと命名された城郭で、かつては丸山城と呼ばれた山名豊国の重臣・武田高信によって築かれた城砦であった。
丸山城の築城時期については定かではないが、永禄年間(1558年~70年)の築城と考えられている。
美作国と播磨国への街道の結節点で、重要な水運である千代川に面しているため、武田高信の居城・大振袖山城の出城として機能した。
1580年(天正8年)羽柴秀吉による「第一次鳥取城攻め」の際には陣が置かれたが、鳥取城の落城後は廃城となったと思われる。

 


<登城記録>
2020年10月3日(土)
14時45分

防己尾城から車で約25分で、千代川の東岸の丘陵上にある河原城に着いた。
山頂には、国宝の犬山城を模した模擬天守が建っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふるさと創生事業として1994年(平成6年)に建設されたが、駐車場の整備などの際に、多くの遺構が破壊されていると推測される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天守の最上階からは、北方に鳥取平野を望むことができる。

鳥取城の築かれた標高263メートルの久松山が見えている。
直線距離で北に約12キロメートルの距離。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

河原城の天守は鳥取自動車道を通る時には必ず視界に入るので、この道を通る度にいつかは登城してみたいと思っていた城である。

丸山城時代の遺構は残されてはいないが、鳥取平野を見渡せる立地や鳥取城までの絶妙な距離があり、羽柴秀吉が「第一次鳥取城攻め」の際に、この場所に陣を置いた理由がよくわかる。

 

 

小太郎 * - * 17:32 * comments(0) * -

防己尾城 羽柴秀吉の大軍を3度も撃退した吉岡定勝の小規模城郭

<城郭データ>
■ 所在地:      鳥取市金沢
■ 築城主:      吉岡定勝
■ 築城年:      天正7年(1579年)
■ 主な城主:   吉岡氏
■ 廃城年:      天正9年(1581年)
■ 城郭構造:   平山城
■ 遺構:         曲輪・土塁・堀切・竪堀

 

<歴史>
防己尾城は1579年(天正7年)因幡国の有力国人・吉岡定勝によって築かれ、箕上山城から居城を移して新たな本拠とした。
吉岡氏は南北朝時代より湖山池西岸を拠点とした因幡の有力国人で、因幡国守護・山名氏に代々仕えた。
1573年(天正元年)毛利氏が圧力を強め、吉川元春が因幡国に侵攻すると、当主の吉岡定勝は毛利氏に帰順し、吉川元春より本領を安堵されている。
1581年(天正9年)羽柴秀吉による因幡侵攻の際には、定勝は毛利氏に従って防己尾城を拠点として抗戦した。
秀吉の千成瓢箪の馬印を奪取するなど、羽柴軍の攻撃を三度にわたって撃退するが、秀吉が力攻めから兵糧攻めに切り替えて防己尾城を包囲する。
防己尾城では兵糧が底をついたため、定勝は降伏開城して毛利氏を頼って安芸に落ち延びる。防己尾城の落城後、程なくして廃城となったと思われる。

 


<登城記録>
2020年10月3日(土)
13時30分

鹿野城から車で約15分で、防己尾城跡の入口に着いた。

防己尾城は湖山池の西岸に位置し、池に突き出した標高40メートル程の半島に築かれている。

現在は道路となっている部分が半島の基部に設けられた大堀切で、右側の半島と分断している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

半島の西側のに本丸と二の丸、東側には三の丸を置き、その周囲を数段の曲輪が固めていた。
本丸と三の丸の間の谷間に町屋が配置され、北端には船着場が設置されていた。

現在、城跡は城址公園として整備され、駐車場や遊歩道が完備している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

駐車場に車をとめて、遊歩道を使って主郭へと向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

比高は約40メートル程しかないため、主郭へはすぐに着く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主郭の中央付近には「防己尾城址」と刻まれた石碑が建っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸からの北側の湖山池の眺望。
湖山池は、砂丘の発達や堆積により海と分離されてできた汽水湖である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸から半島の東端へ。

この辺りは羽柴軍との攻防が最も激しかった場所である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北側に見える岬が防己尾城攻めの際に、羽柴秀吉が布陣した三津崎。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

防己尾城から三津崎へ移動する。

ここからは、防己尾城の全体がよく見える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

14時20分

三津崎から防己尾城をしばらく眺めた後、次の予定の河原城へ向かう。

 

小太郎 * - * 17:29 * comments(0) * -

鹿野城 尼子晴久の因幡侵攻よって滅亡した鹿野氏の居城

<城郭データ>
■ 所在地:      鳥取県鳥取市鹿野町鹿野
■ 築城主:      志加奴氏(鹿野氏)
■ 築城年:      不明
■ 主な城主:   志加奴氏・山名氏・亀井氏・池田氏
■ 廃城年:      明治4年(1871年)
■ 城郭構造:   平山城
■ 遺構:         石垣・堀・曲輪・土塁

 

<歴史>
鹿野城の築城時期は不明であるが、因幡国の国人領主である志加奴氏によって築城され、南北朝時代から戦国時代にかけて代々の居城としていた。
志加奴氏は因幡国守護の山名氏に従属していたが、1544年(天文13年)尼子晴久が因幡国に侵攻を開始して鹿野城を落城させ、志加奴氏は滅亡する。
その後、尼子氏が衰退して毛利氏が台頭してくると、鹿野城も毛利氏の属城となる。
1580年(天正8年)羽柴秀吉による「第一次鳥取城攻め」では秀吉の配下で尼子家の旧臣・亀井茲矩が鹿野城を攻め落とし、鹿野城の城主となった。
1600年(慶長5年)亀井茲矩は「関ヶ原の戦い」では東軍に属して、その功績によって3万8千石で鹿野藩を立藩する。
茲矩は大規模な新田開発や産業の育成に実績を残し、朱印船貿易で富を築いて城下町を整備し、さらに鹿野城を大改築して近世城郭へと大きく変貌させた。
1617年(元和3年)茲矩の子・亀井政矩は津和野藩へ転封され、代わりに池田光政が因幡・伯耆両国に移封される。
鹿野藩は廃藩となって鳥取藩に吸収され、鹿野城には家臣の日置忠俊が配置された。
1632年(寛永9年)池田光政が岡山31万5千石へ移封となり、池田光仲が鳥取32万5千石に国替えとなると、鹿野城は事実上の廃城となる。

 

 


<登城記録>
2020年10月3日(土)
12時20分

鹿野城は標高148メートル(比高100メートル)の城山に築かれた中世山城と、近世に拡張された山麓の平城の二つの区画で構成されている。
城山に築かれた山城部分には、山頂に置かれた本丸を中心に、階段状に曲輪が配置されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、絵図によると「オランダ櫓」や「朝鮮櫓」などの珍しい名称の櫓が記載されているが、これらの遺構は現在は残っていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

亀井茲矩が山麓に拡張した平城部分には本丸・二の丸が置かれ、現在は鹿野城跡公園として整備されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

二の丸跡には、近世城郭に相応しい広大な水堀が残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二の丸の周囲を囲む石垣は低く、かなり丸い石が多用されているが、隅部は「算木積み」で積まれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内堀に架かる橋を渡って二の丸へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

現在は、鹿野学園王舎城学舎の校舎が建っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二の丸から内堀に架かる橋を渡って、広大な本丸跡へ。
本丸は二の丸より一段高く、往時には居館が築かれていたと思われる。
現在は鹿野学園のグランドとなっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12時35分

本丸跡を縦断して、城山の麓の登城口から登城を開始する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

登城口から登り始めると、すぐに休憩所が見えてくる。

城山案内図によると六角堂とあるが、ただの休憩施設である。

まだまだ休憩する感じではないので、そのまま通過する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西の丸へ到着。

西の丸は細長い曲輪であるが、山城部分では最も規模が大きい。
初代鹿野藩主・亀井茲矩の隠居所が建っていた場所である。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絵図によると二の丸・三の丸などの曲輪が天守台の下段に階段状に配置されているが、案内板などがないため、どれがどの曲輪なのかよく分からない。

この曲輪は奥に建物の礎石が並んで残っていたため、西の丸と確信できた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見晴らしの悪そうな展望台のある曲輪。

三の丸跡と推測したが、あまり自信はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

城山神社が鎮座する曲輪。西の丸の一段上部に位置している。
祭神は須佐之男命で、城内を鎮守するために建立された。

宇多源氏佐々木氏流を称する亀井氏の家紋である「隅立て四つ目結」の装飾が施されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

城山神社の入口付近から、天守台へと道は通じている。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天守台の一段下に位置する曲輪。

絵図によると、二の丸跡と推測される。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12時51分

山麓の登城口から約16分で、城山の最高所にある天守台跡に到着。

絵図には本丸という表記はないため、本丸と天守台が一体となった曲輪と考えるべきであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天守台跡には10メートル四方に礎石跡が確認でき、その規模からすると二層程度の天守であったと推定されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天守台跡から北側に広がる鹿野の街並み。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

13時15分

鹿野城の登城を終えて、次の予定の防己尾城へ向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小太郎 * - * 17:25 * comments(0) * -

高浜城 若狭武田氏の重臣・逸見昌経が築いた若狭水軍の拠点

<城郭データ>
■ 所在地:      福井県大飯郡高浜町事代
■ 築城主:      逸見昌経
■ 築城年:      永禄8年(1565年)
■ 主な城主:   逸見氏・溝口氏・山内氏・木下氏
■ 廃城年:      寛永11年(1634年)
■ 城郭構造:   平山城
■ 遺構:         曲輪・石垣

 

<歴史>
高浜城は1565年(永禄8年)若狭武田氏の重臣・逸見昌経によって築かれた。
逸見氏は甲斐源氏の庶流で、1440年(永享12年)安芸武田氏の武田信栄が若狭国守護に任じられた際に、信栄に従って若狭に入部したと考えられている。
若狭逸見氏は代々若狭武田氏に仕え、若狭武田氏の四家老の一つに数えられる。
1556年(弘治2年)武田信豊と嫡子・武田義統に家督争いが起こると、信豊には逸見昌経・粟屋勝久が従い、義統には越前の朝倉義景が加勢した。
1561年(永禄4年)朝倉氏の大軍に攻められて信豊は義統に大敗を喫し、昌経の居城であった砕導山城も落城に追い込まれるが、昌経は隣国の丹波国の松永久秀の弟・松永長頼の援軍を得て義統に反抗を続け、1565年(永禄8年)若狭国高浜に高浜城を築いて本城とする。
1567年(永禄10年)義統が病没すると、義統の子・武田元明が朝倉氏によって一乗谷に軟禁され、若狭武田氏は若狭の事実上の支配権を失った。
その後、織田信長の勢力が若狭に及ぶようになると、昌経は信長に仕えて若狭衆の筆頭として朝倉・武田氏との戦いに従軍し、元明が若狭に復帰した後も信長から高浜城の城主として認められた。
1581年(天正9年)昌経が病没すると、嫡子のいない若狭逸見氏は断絶し、昌経の遺領は溝口秀勝と武田元明に分配された。
1585年(天正13年)高浜城には山内一豊が入城し、1594年(文禄3年)には豊臣秀吉の正室・北政所の甥・木下利房が入城する。
1600年(慶長5年)利房は「関ヶ原の戦い」で西軍に加勢したために改易となると、若狭一国を拝領して小浜城に在城した京極高次は重臣の佐々義勝を高浜城代とした。
1634年(寛永11年)江戸幕府の重鎮である酒井忠勝が若狭国小浜に12万3千石で封ぜられると、高浜城は廃城となる。

 


<登城記録>
2020年9月20日(日)
12時10分

城山公園の無料駐車場に着いた。
城山公園は景勝地「明鏡洞」で有名な観光スポットで、高浜城はその西側の海に突き出した半島に築かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

若狭国で初めて築かれたとされる平山城で、水軍の運用も重視した城郭であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高浜城のあった城山は宿泊施設「城山荘」の奥にあり、現在は頂上まで遊歩道が整備されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

城山の頂上には浜見神社の祠があり、この辺りが主郭があった場所と思われる。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

浜見神社の奥には「高濱城址」と刻まれた石碑と案内板が建っている。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

規模的には小さい曲輪である。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

城山の頂上付近からの若狭湾の眺望。
複雑に入り組んだ海岸線は、水軍の拠点に適した地形であることがよくわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小太郎 * - * 21:30 * comments(0) * -

小田城 何度も落城を繰り返した常陸の名門・小田氏の本拠地

<城郭データ>
■ 所在地:      茨城県つくば市小田
■ 築城主:      八田知家
■ 築城年:      建久3年(1192年)
■ 主な城主:   小田氏・太田資正・梶原政景
■ 廃城年:      慶長7年(1602年)
■ 城郭構造:   平山城
■ 遺構:         堀・土塁・空堀

 

<歴史>
小田城は小田氏の始祖である八田知家が1185年(文治元年)常陸国守護に任命され、当地に居館を構えたことが起源と伝わる。
八田知家は鎌倉幕府の御家人で下野宇都宮氏の当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男で、知家の子・八田知重が小田氏を称した。
南北朝時代には当主・小田治久が南朝方に属して勢力を拡大し、常陸国における南朝方の拠点となった。南朝方の主力であった北畠親房が小田城に在城して「神皇正統記」が執筆されたことは有名である。
室町時代には鎌倉公方を支える「関東八屋形」に列せられる名族となるが、戦国時代になると小田氏・江戸氏・結城氏などの周辺の勢力に次第に圧迫され、常陸国の南部を支配するのみとなる。
小田政治が当主の時には所領を拡大して小田氏の最盛期を迎えたが、政治の子・小田氏治は佐竹氏と北条氏という関東の二大勢力に領土を侵され、小田氏の力は大きく衰退していった。
1569年(永禄12年)氏治は佐竹氏の侵攻によって小田城を奪われ、支城の土浦城に敗走する。(手這坂の戦い)
小田城は佐竹氏の属城となり、1570年(元亀元年)佐竹氏の配下となった太田資正が城主になり、1572年(元亀3年)には資正の次男・梶原政景が城主になる。
「関ケ原の合戦」後の1602年(慶長7年)佐竹氏の出羽国秋田に転封に伴って小田城は廃城となる。
 


<登城記録>
2020年9月9日(水)
16時40分

多賀谷城より車で約30分で、小田城の北西にある小田城跡歴史ひろば案内所に到着。

小田城の旗幟が多く掲げてあり、十分にやる気が感じられる案内所であるが、16時30分の閉館で時間的に少し間に合わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小田城は東西500メートル・南北600メートルの広大な規模を誇り、本丸を中心にしてその外側に幾つもの曲輪や馬出を三重の堀で区画した輪郭式の縄張りであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

案内所から小田城までの途中には、「神皇正統記起稿之地」と刻まれた大きな石碑が建っている。
南北朝時代に北畠親房が小田城にて「神皇正統記」を執筆したことに由来する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

案内所から150メートルほど歩くと、小田城主郭の北西隅に着く。

現存する空堀では国内で最大規模とされる豪快な空堀が印象的。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主郭の北側の虎口から城内へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主郭の規模は約130メートル四方の方形で、周囲は土塁で囲われている。
北・東・南西部に虎口が開き、南西部は木橋で角馬出と繋がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主郭の内部は発掘調査によって障子堀が確認されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主郭南隅に残る櫓台の「涼台」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

城址碑が建っているが、風化によって刻まれた文字はほとんど読めない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主郭東側に再現された東池。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主郭西側に再現された西池。

水は張られておらず、砂利が敷き詰められている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主郭の南西に位置する南西虎口跡。
土塁の一部を切削して造られた虎口で、当時は周辺には石垣が築かれていた。
現在は石垣のレプリカで再現されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

南西虎口から、木橋を渡って南西馬出曲輪へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

約50メートル四方の規模があり、周囲は土塁で囲まれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

南西馬出曲輪より南堀の先の主郭方面を望む。

前方の高台は涼台。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

南西馬出曲輪より北側の眺望。

主郭の遥か向こうに、筑波山が見えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

南西馬出曲輪より主郭を縦断して、主郭の東に位置する東曲輪へ移動する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主郭の東虎口と外側の東曲輪の間には東堀があり、現在は復元された橋で繋がっている。
当時、この橋は半分が土橋で半分が木橋の構造であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東曲輪には建物が存在していた形跡がなく、馬出の役割を有した曲輪と推定されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主郭北東隅に残る櫓台跡。

「鐘楼台」と呼ばれ、横矢が掛かった構造になっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

17時25分

小田城の登城を終えて、本日の登城予定はすべて終了。

突然の雷雨の中を急いで帰途に就く。

 

小太郎 * - * 23:49 * comments(0) * -

多賀谷城 結城氏再興に貢献した重臣・多賀谷氏の居城

<城郭データ>
■ 所在地:      茨城県下妻市本城町
■ 築城主:      多賀谷氏家
■ 築城年:      寛正2年(1461年)
■ 主な城主:   多賀谷氏・徳川頼房
■ 廃城年:      慶長14年(1610年)
■ 城郭構造:   平城
■ 遺構:         土塁

 

<歴史>
多賀谷城は1461年(寛正2年)武蔵七党の野与党を祖とする一族の多賀谷氏家によって築かれた。
氏家は1440年(永享12年)結城氏らの関東の諸勢力が室町幕府と戦った「結城合戦」で、落城寸前の結城城から結城氏朝の末子・結城成朝を救出して常陸国の佐竹氏を頼った。結城氏は一時滅亡するが、その後に足利成氏が鎌倉公方に就任すると、結城氏の再興が許されて成朝が家督を継いだ。
1454年(享徳3年)「享徳の乱」では成朝は足利成氏の命により関東管領・上杉憲忠の殺害を画策し、憲忠は多賀谷氏家によって討ち取られた。
氏家は足利成氏から功績を認められて下妻三十三郷を与えられると、当地に多賀谷城を築城し、以降は多賀谷氏代々の居城となった。
1590年(天正18年)多賀谷重経は豊臣秀吉の「小田原征伐」に参戦し、下妻6万石の知行を安堵された。
しかし、重経は独立した大名ではなく結城氏の与力大名とされたことに反発し、「文禄の役」への出陣を拒否したため、所領の大部分を没収される。
さらに、1600年(慶長5年)「関ケ原の戦い」では徳川家康の出陣要請に応じず、上杉景勝と通じて西軍に加勢したために改易処分となり、重経は出羽国秋田に転封となった佐竹氏を頼って下妻を離れ、多賀谷氏は没落する。
領主が不在となった下妻は一時天領となり、1606年(慶長11年)徳川家康の11男・鶴千代(徳川頼房)が5万石で入封するが、1610年(慶長14年)水戸藩25万石を立藩して水戸に移ったために下妻は再び天領となる。

 


<登城記録>
2020年9月9日(水)
15時55分

真壁城から車で約30分で、多賀谷城跡公園に着いた。
現在、城跡の周辺は宅地化が進み、遺構はほぼ消滅している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸の一部が多賀谷城跡公園として整備されているのみである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1889年(明治22年)本丸跡の高台に「多賀谷氏遺跡碑」が建てられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

16時5分

多賀谷城の登城は瞬時に終了。本日最後の予定の小田城へ向かう。

 

小太郎 * - * 23:48 * comments(0) * -

真壁城 大掾氏一族である真壁長幹が築いた真壁氏の本拠地

<城郭データ>
■ 所在地:      茨城県桜川市真壁町古城
■ 築城主:      真壁長幹
■ 築城年:      承安2年(1172年)
■ 主な城主:   真壁氏・浅野氏
■ 廃城年:      慶長7年(1602年)
■ 城郭構造:   連郭式平城
■ 遺構:         曲輪・土塁・堀・移築門

 

<歴史>
真壁城は1172年(承安2年)真壁郷を領した大掾氏の一族である大掾長幹によって築かれたと伝わる。
長幹は真壁氏を称して、以後400年間にわたって真壁城を居城とする。
長幹は鎌倉幕府の成立後に御家人となり、子孫は庶流を分立させて繁栄した。
南北朝時代に真壁氏は北朝方に属して足利尊氏より真壁郡の所領を安堵され、将軍と直接主従関係を結ぶ京都扶持衆として勢力を有した。
戦国時代には近隣の小田氏・江戸氏・結城氏と抗争を繰り広げるが、最終的に佐竹氏に属し、「関ケ原の合戦」後に佐竹氏が出羽国秋田に転封となると、真壁氏はこれに従った。
1606年(慶長11年)浅野長政が隠居料として真壁藩5万石を与えられ、長政の死後は三男・浅野長重が真壁城に入城した。
1622年(元和8年)長重は常陸国笠間へ転封となり、代りに稲葉正勝が1万石で入封する。しかし、正勝が1628年(寛永5年)下野国真岡に移封されると、真壁は天領となって真壁城も廃城となる。

 


<登城記録>
2020年9月9日(水)
14時40分

府中城より車で筑波山地を横断して真壁城へ。

真壁体育館の広い駐車場に車をとめて、登城を開始する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真壁体育館の敷地が当時の本丸にあたり、駐車場の片隅には「真壁城跡」と刻まれた新しい石碑が建てられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
真壁城は本丸の周囲を同心円状に二の丸が囲み、二の丸の東側に中城・外曲輪が続き、四重の堀と土塁によって防御力を高めた大規模な城郭であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸から土橋を渡って、西側の二の丸へ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸と二の丸とは水堀で仕切られている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二の丸は本丸より一段低い場所にある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二の丸の東側に空堀を隔てて中城が広がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在は発掘調査のためにブルーシートが敷かれている。

今後の調査の結果に期待したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中城と外曲輪の間の大規模な空堀。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中城から広大なスペースの外曲輪へ。

外曲輪は北側・南側と東側に虎口を開き、周囲は高い土塁と深い空堀が巡っていた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

外曲輪の北虎口。

横矢が掛かった土塁が復元されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

外曲輪の南東の隅に祀られた鹿嶋神社。
古来より武術の神として信仰を集めており、真壁氏も厚く尊崇していたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鹿島神社の祠の裏側には、高く盛り上げられた土塁が現存している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

外曲輪の南側には枡形虎口が復元されている。
復元ではあるが、なかなか凄い迫力がある。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

外曲輪の南虎口から中城の南西虎口を経て、二の丸・本丸へと戻る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15時25分

今年は9月に入ってからも酷暑の日が続き、今日も35度に近い気温になったようだ。

真壁城には日差しを遮るものが何もなく、直射日光をまともに浴びてしまうため、広い城内を散策するには日傘や帽子が必須である。

真壁体育館の駐車場で少し涼んでから、次の予定の多賀谷城へ向かう。

 

小太郎 * - * 23:47 * comments(0) * -

府中城 佐竹義宣に滅ぼされた常陸平氏の嫡流・大掾氏の本拠地

<城郭データ>
■ 所在地:      茨城県石岡市石岡市総社
■ 築城主:      大掾詮国
■ 築城年:      正平元年/貞和2年(1346年)
■ 主な城主:   大掾氏・佐竹義尚・六郷政乗・皆川氏・松平氏
■ 廃城年:      明治4年(1871年)
■ 城郭構造:   平城
■ 遺構:         陣屋門・土塁・空堀

 

<歴史>
府中城は1346年(正平元年)常陸国に勢力を有していた大掾詮国よって築かれたと伝わる。
大掾氏は坂東平氏の一族の常陸平氏の嫡流であり、惣領家が常陸大掾職を世襲したため、その職名から大掾氏と称するようになった。
その後、約240年にわたって大掾氏の居城であったが、1590年(天正18年)大掾清幹が当主の時に佐竹義宣によって攻略され、府中城は落城して大掾氏も滅亡する。
府中城には義宣の叔父・佐竹義尚が入城するが、「関ヶ原の戦い」後の1602年(慶長7年)佐竹氏は出羽国久保田へ転封となる。
府中城には六郷政乗が入城し、常陸府中藩1万石を立藩する。
1623年(元和9年)六郷政乗が出羽国本庄へ転封となると、代わりに皆川広照が入封されるが、皆川氏は3代で断絶して府中藩は廃藩となる。
1700年(元禄13年) 初代水戸藩主・徳川頼房の五男・松平頼隆が常陸国府中に入封されると、府中城の一画に府中陣屋を築いて再び常陸府中藩を立藩する。
以降は松平氏が10代続いて、明治維新を迎える。

  


<登城記録>
2020年9月9日(水)
13時50分

土浦城から車で約25分で、石岡市ふるさと歴史館に着いた。

ここに車をとめて、府中城の土塁の一部が残る石岡小学校まで移動する。

城域は東西に約500メートル・南北に約400メートルで、緩やかな丘陵に本丸・二の丸・三の丸・箱の内出丸・磯部出丸・宮部出丸が配置され、土塁や堀を幾重にも巡らした堅固な城郭であった。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石岡小学校の校門の両脇に土塁が残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石岡小学校の校門前には、府中藩の陣屋の表門が移築されている。
府中陣屋の唯一現存する建築物で、1828年(文政11年)に建築された高麗門である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在は周辺の市街地化が進み、府中城の遺構はほとんど消滅している。

僅かに石岡小学校付近に残る土塁と移築陣屋門によって、僅かながら当時の面影を偲ぶことができるのみである。

滞在時間は15分程であるが、次の予定の真壁城へ向かう。

 

小太郎 * - * 23:46 * comments(0) * -
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