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熊本城 築城の名手・加藤清正が築城術の粋を集めた渾身の城

<城郭データ>
■ 所在地:      熊本県熊本市中央区本丸1-1
■ 築城主:      加藤清正
■ 築城年:      慶長6年(1601年)
■ 主な城主:   加藤氏・細川氏
■ 廃城年:      明治7年(1874年)
■ 城郭構造:   梯郭式平山城
■ 遺構:         現存櫓・門・塀・石垣・堀

 

<歴史>
1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」の功績によって肥後一国を領有した加藤清正は、1601年(慶長6年)から茶臼山と呼ばれた丘陵地に当時の最先端技術を駆使して熊本城の築城を始める。
この地には応仁・文明年間に肥後国守護・菊池氏の一族が築いた千葉城、その後に鹿子木氏が築いた隈本城があり、それらの城郭を取り込むように改築されている。
7年の歳月をかけて1607年(慶長12年)に熊本城は完成し、熊本藩の政庁として機能する。
1632年(寛永9年)加藤清正の三男で2代熊本藩主・加藤忠広が改易処分となり出羽国丸岡に配流されると、細川忠利が豊前小倉藩37万石から肥後熊本藩54万石へ転封され、熊本城に入城する。
細川氏の居城となった後も熊本城の改修や拡張は続き、明治維新まで細川氏が代々城主を務めた。
1874年(明治7年)廃城となるが、城内には明治政府直属の熊本鎮台が置かれる。
1877年(明治10年)「西南戦争」の際には政府軍の重要拠点となり、西郷隆盛に率いられた薩摩軍1万4千に攻められる。
司令官・谷干城の指揮の下で4千の兵力が熊本城に籠城し、撃退に成功するが、この時に天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失する。

 


<登城記録>
2019年7月12日(金)
17時5分

宇土古城から車で約40分で、熊本城内にある「城彩苑」の駐車場に着いた。

震災による立入禁止のエリアが多いため、現時点での標準コースである未申櫓から二の丸広場を通り、戌亥櫓を経て加藤神社と回るルートで見学。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西出丸の南西隅に建つ二重三階の「未申櫓」

加藤清正の築城時から存在していたが、1877年(明治10年)の西南戦争後に解体。2003年(平成15年)に木造で復元された。
下部は勾配が緩くて上部になるにつれて勾配が急になる独特の「扇の勾配」が美しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

未申櫓から北に向かい、二の丸駐車場を経て二の丸広場へ。

この辺りは震災の影響を全く感じさせない長閑な感じ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西出丸の北西隅に建つ二重三階の「戌亥櫓」

構造は未申櫓と同一で、同時期に築かれたものと考えられている。
2003年(平成15年)未申櫓と同時に木造で復元された。
櫓の崩壊を隅石一本で支えているように見える。

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸の西北隅の高石垣の上に建つ三層五階の「宇土櫓」

外見上は震災による大きな被害を受けていないように見え、目に見えない不屈の魂を感じる。天守並みの構造と規模を誇る現存櫓で、現存する天守・櫓では姫路城・松本城・松江城に次いで4番目の高さである。

国の重要文化財に指定されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宇土櫓は小西行長の宇土城の天守を移築したものとする説が有力であった。

しかし、解体修理の際に移築の痕跡は発見できず、現在はその説は否定されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

17時30分

本丸北側の加藤神社に到着。

加藤神社は加藤清正を主神とする神社で、1871年(明治4年)に建立された。 

これ以上は先に進むことができないため、お参りをしてからここで折り返す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

熊本城の入口付近に建つ「加藤清正像」

加藤清正は幼少期より豊臣秀吉に仕え「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられる。

通称は「虎之助」という。
肥後半国を領有して熊本城主となり、文禄・慶長の役で朝鮮に出兵。

「関ヶ原の戦い」では徳川家康が率いる東軍に従軍し、肥後一国54万石を領有した。
秀吉亡き後の豊臣家の安泰を願って豊臣秀頼と家康との二条城会見に従うが、その帰途の船中で発病。その後間もなく、1611年(慶長16年) 6月24日に50歳で死去する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在の熊本城は立入禁止のエリアが多くて完全復興にはまだまだ遠いが、復興中の天守の様子を見ていると、着々と元の姿を取り戻しつつあるようだ。

もう少し復興が進めば、再登城の必要がありそうだ。

 

小太郎 * - * 23:13 * comments(0) * -

宇土古城 肥後国宇土郡の豪族・宇土氏が築いた中世城郭

<城郭データ>
■ 所在地:      熊本県宇土市神馬町
■ 築城主:      宇土氏
■ 築城年:      不明
■ 主な城主:   宇土氏・名和氏
■ 廃城年:      天正16年(1588年)
■ 城郭構造:   連郭式平山城
■ 遺構:         建物跡・横堀・石垣・復元城門

 

<歴史>
宇土古城の築城時期は定かではないが、鎌倉時代の末期に肥後国守護であった菊池氏一族の宇土氏が築城したと伝えられている。
1504年(永正元年)肥後国八代を本拠にしていた名和顕忠は、肥後国守護・菊池能運が急死した際の混乱に乗じて宇土に侵攻してくる。
名和氏は宇土古城を改修して本拠とし、宇土氏と称するようになる。
天正年間になると薩摩国の島津氏の勢力が増大し、宇土氏は島津氏に従属するようになる。そのため、1587年(天正15年)豊臣秀吉の「九州征伐」に際しては島津勢として参戦することになり、所領を失うことになる。
1588年(天正16年)小西行長が肥後南半国24万石の領主として宇土古城に入る。
しかし、行長は宇土古城の東側に新たに宇土城を築いたため、宇土古城は廃城となった。

 


<登城記録>
2019年7月12日(金)
15時50分

宇土城からすぐ西側の丘陵に残る宇土古城へ到着。

駐車場は丘陵の西側にあり、綺麗なトイレも完備されている。

宇土城では訪問客は一人も見かけなかったが、こちらの城には何組かの先客がいるようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宇土古城は西岡台と称される独立丘陵に築かれており、中央の峡間を境に東に主郭となる「千畳敷」、西に「三城」が配された連郭式の構造となっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

駐車場の片隅から千畳敷へ通じている石段を上る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石段のすぐ隣に竪堀が残っている。 

但し、緩やかな斜面に設けられているため、あまり防御力が高いとは考えられない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

丘陵の比高は約38メートルしかないため、千畳敷へは数分で着いてしまう。

千畳敷の周囲には堀が巡らされているが、コンクリートで固められてしまっている。
遺跡の保全には良いのであろうが、どうしても偽物のように見えてしまう。
もう少し全体の景観に配慮した保全方法がないのであろうか。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

千畳敷の虎口には木柵と城門が復元されている。

コンクリートで固められた通路が少々気になるが、中世城郭の古城感の雰囲気が漂っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

城門を抜けて千畳敷へ。内部は広くて長閑な感じ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

千畳敷では大規模な発掘調査が実施されており、その時に見つかった掘立柱建物の柱石跡が再現されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一棟の東屋が復元されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

千畳敷を下りて西側の曲輪の三城へ向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

丘陵の中央の峡間には案内板が建っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

案内板からさらに西へ歩くと、小高くなった場所に三城の曲輪がある。

ここにも掘立柱建物の柱石跡が再現されている。

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三城の周囲には多数の腰曲輪が配置されており、石積みも残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宇土古城に残された遺構はそれほど多くはないが、整備状況は良好である。

全体的に防御力の高い城郭とは考えられないが、城域は広くて一城別郭のような構造になっており、結構楽しむことができた。

元々の期待値が低かったこともあって、予想に反して良き登城となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

16時25分

宇土古城を後にして、本日最後の予定になる熊本城へ向かう。

 

小太郎 * - * 23:13 * comments(0) * -

宇土城 キリシタン大名・小西行長によって築かれた近世城郭

<城郭データ>
■ 所在地:      熊本県宇土市古城町
■ 築城主:      小西行長
■ 築城年:      天正16年 (1588年)
■ 主な城主:   小西行長・加藤清正
■ 廃城年:      慶長9年(1604年)
■ 城郭構造:   平山城
■ 遺構:         堀・石垣

 

<歴史>
宇土城は1589年(天正17年)肥後南半国を領有した小西行長によって宇土古城の東に位置する丘陵に築かれた。
三重五階の天守などが建てられたが、1600年(慶長5年)小西行長が「関ヶ原の戦い」に敗れて斬首されると、肥後北半国を領有していた加藤清正が小西領を併合して肥後一国の領主となる。
宇土城は加藤清正の支配下となるが、清正が1611年(慶長16年)に死去すると、翌年の1612年(慶長17年)に廃城となる。
「島原の乱」の時の原城のように反乱軍に利用されることを防止するため、徳川幕府は西国の廃城に対して再度の破却を命じ、城跡は徹底的に破却された。

 


<登城記録>
2019年7月12日(金)
15時20分

麦島城から車で約50分で宇土城山公園の無料駐車場へ到着。

公園北側の道路から墓地へ続く道を通るが、宇土城入口の看板が建っているので迷うことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在は本丸部分が公園として整備されており、本丸の西側の墓地が二の丸であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
本丸と二の丸との間の道路はかつての水堀跡。

本丸の周囲に沿って南に歩く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸の周囲を巡っていた石垣の一部が残っている。

この石垣は小西行長が築いたものではなく、加藤清正の時代の石垣である考えられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに奥に進むと別の駐車場に着いた。

駐車場の背後にも石垣が明瞭に残っている。

駐車場からは石の坂道が本丸へ通じており、ここから本丸へ向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

広大な本丸跡は整備が行き届いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
本丸の片隅には「小西行長銅像」が建っている。本丸にはこれ以外に何もない。
小西行長は堺の豪商・小西隆佐の子。
幼い頃にキリシタンの洗礼を受け、受洗名は[アウグスチヌス]という。
豊臣秀吉に仕え、肥後一国を領有していた佐々成政の失脚後に肥後南半国24万石を与えられる。秀吉の死後、天下の覇権を賭けた「関ヶ原の戦い」で敗れ、京都六条河原で処刑された。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸から西側の二の丸跡を望む。現在は墓地になっている。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宇土城の想像図。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小太郎 * - * 23:12 * comments(0) * -

麦島城 小西行長が海上交通の要衝に築いた南蛮貿易の拠点

<城郭データ>
■ 所在地:      熊本県八代市古城町
■ 築城主:      小西行長
■ 築城年:      天正16年(1588年)
■ 主な城主:   加藤氏
■ 廃城年:      元和5年(1619年)
■ 城郭構造:   輪郭式平城
■ 遺構:

 

<歴史>
1588年(天正16年)肥後南半国を領有した小西行長は、重臣の小西行重に命じて球磨川の北岸の三角州に総石垣造りのに麦島城を築城させる。
当時の麦島城の西側は海に面し北側は大きな入江となっており、ここに豊臣秀吉の直轄港である徳淵津が設けられて南蛮貿易の拠点として機能したと考えられる。
1600年(慶長5年)小西行長が「関ヶ原の戦い」に敗れて斬首されると、肥後北半国を領有していた加藤清正が旧小西領を併合して肥後一国の領主となり、熊本藩が成立する。
麦島城は加藤氏の本城である熊本城の支城として改築され、城郭の規模も大きく拡張された。
清正が1611年(慶長16年)に死去すると、翌年の1612年(慶長17年)に江戸幕府より家臣の加藤正方が麦島城代に任じられる。
1615年(元和元年)一国一城令が布告されるが、熊本藩は熊本城と麦島城の二城体制が特別に許された。
1619年(元和5年)肥後一帯を襲った大地震によって建物が倒壊するなどの甚大な被害を受け、もはや再建は不可能と判断されて廃城処分となる。

 


<登城記録>
2019年7月12日(金)
14時15分

八代城から車で5分程で、八代市シルバー人材センターに到着。
麦島城跡地の周辺は宅地化が進み、大部分の遺構は住宅地の下に埋まっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

縄張り図によると麦島城は本丸・二の丸・三の丸で構成されており、この辺りは二の丸であったようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

館内には地下に埋もれた当時の石垣の一部が展示されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この場所から北西方向の城跡碑が建っている場所に向かう。

車では通行できない箇所があるため、シルバー人材センターの駐車場からは徒歩で移動する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

住宅地の中の空き地に「麦島城跡」の城跡碑を見つける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

付近には八代城の石垣に積まれていたのと同様の石灰岩の石材がゴロゴロしている。

麦島城で使われた石垣の一部であろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

14時31分

他に見るものがないため、シルバー人材センターに戻って麦島城の登城は終了。

次の予定の宇土城へ向かう。

 

小太郎 * - * 23:11 * comments(0) * -

八代城 麦島城の倒壊後に築かれた熊本藩の一国一城令の例外

<城郭データ>
■ 所在地:      熊本県八代市松江城町
■ 築城主:      加藤忠広
■ 築城年:      元和5年(1619年)
■ 主な城主:   加藤忠広・細川氏・松井氏
■ 廃城年:      明治3年(1870年)
■ 城郭構造:   輪郭式平城
■ 遺構:         天守台・石垣・堀・曲輪・城壁・本丸大書院・庭園

 

<歴史>
元和の一国一城令の例外として特別に許されていた麦島城が1619年(元和5年)肥後一帯を襲った大地震によって倒壊すると1620年(元和6年)加藤清正の三男で2代熊本藩主・加藤忠広は麦島城を廃城とし、江戸幕府の許可を得て球磨川の北岸に新たな八代城を築いた。
1632年(寛永9年)忠広が改易処分となり出羽国丸岡に配流されると、細川忠利が豊前小倉藩37万石から肥後熊本藩54万石へ転封される。
藩主の忠利は熊本城に入城し、忠利の父・細川忠興は八代城を居城とする。
1645年(正保2年)八代城にて隠居していた細川忠興が死去すると、翌年の1646年(正保3年)筆頭家老・松井興長が八代城を預かることになる。
以後、1870年(明治3年)の廃城まで八代城は代々松井氏が居城とする。

 


<登城記録>
2019年7月12日(金)
13時10分

JR新八代駅からレンタカーを借りて、約15分で八代城の北東に位置する駐車場に到着。この駐車場は当時の二の丸の一部で、内堀に突き出した出枡形のような珍しい構造になっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石垣には八代海沿岸で採石された石灰岩が多用されており、その白さから別名「白鷺城」とも呼ばれている。
現在も石垣の一部に白い部分が見られる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在、城跡は八代城跡公園として整備されており、現存するのは本丸部分の石垣と内堀のみである。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

駐車場からは本丸東側の内堀に沿って、石垣を眺めながら南に歩く。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸東側の欄干橋から本丸へ入る。
かつては木製の太鼓橋であったが、現在はコンクリート製の橋に再建されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

欄干橋の南西側の擬宝珠には、築城時の「元和八年」と刻まれた文字が残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

欄干橋を渡って本丸の大手口であった表舛形門へ。
かなり広い桝形門で、当時は高麗門と櫓門形式の「頬当御門」が建っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸の北東に位置する三階櫓跡。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
本丸の北側を守備した平櫓の「唐人櫓跡」の石垣が残っている。

石垣にはV字型の合坂と呼ばれる階段が設けられている。
当時は大天守との間には塀が築かれていた。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸から北の丸へ通じる搦手口から本丸の外へ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

搦手口には裏桝形門が設けられ、当時は「廊下橋門」と埋門が建っていた。

現在でも門の礎石が残されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

埋門から唐人櫓跡を回り込むと天守台の石垣が見えてくる。
ここには四層五階の大天守と二層三階の小天守が並んでいた。

1672年(寛文12年)の落雷で天守が焼失するが、その後は再建されなかった。

▼大天守台

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▼小天守台

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小天守台の上部。 

奥に見えるのが大天守台。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
本丸中央の大書院跡には1880年(明治13年)「八代宮」が創建された。
後醍醐天皇の皇子で九州における南朝方の全盛期を築いた懐良親王を祭神とする神社で、明治時代の南朝を崇敬する風潮を色濃く反映している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
1997年(平成9年)の発掘調査により発見された本丸井戸跡。 
 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸南西隅に建っていた二層二階の「月見櫓跡」
当時は北側の小天守との間と東側の「舞台脇の櫓」との間には長塀が続いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸南東隅に建っていた二層二階の「宝形櫓跡」
屋根の頂には路盤宝珠を乗せており、 二階は仏殿になっていたと考えられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二層二階の「舞台脇の櫓跡」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

南側の出入口から本丸を出る。
本来この場所には虎口はなく、八代宮の参道のために石垣が一部壊されて橋が架けられた。かつてはここの石垣は連続しており、 その上には月見櫓と舞台脇櫓を結ぶ長塀が続いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸の西側を内堀に沿って北へ移動。

正面の石垣は本丸南西隅の月見櫓跡で、左側奥には小天守台と大天守台の石垣が見えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸北西の大天守台と小天守台の石垣が見えている。

ここには四層五階の大天守と二層三階の小天守が並んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸の北に位置する北の丸跡へ。
北の丸には庭園が造られ、隠居後の細川忠興が居住していた。
現在は1881年(明治14年)に創建された松井神社が建っている。
御祭神は松井家の初代・松井康之と2代・松井興長。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

14時5分

内堀沿いに本丸の回りを歩いて、元の駐車場まで戻ってくる。

ここから南へ約2kmほどの距離を移動して、次の予定の麦島城へ向かう。

 

小太郎 * - * 23:10 * comments(0) * -

猿岡山城 粉河衆が猿岡山に築いた粉河寺の防衛拠点

<城郭データ>
■ 所在地:      和歌山県紀の川市粉河
■ 築城主:      粉河衆
■ 築城年:      天正元年(1573年)
■ 主な城主:   藤堂高虎
■ 廃城年:      文禄5年(1596年)
■ 城郭構造:   山城
■ 遺構:         曲輪

 

<歴史>
猿岡山城は1573年(天正元年)紀伊国北部の紀ノ川流域に勢力を有していた粉河寺が、境内の南側にある猿岡山に築城して防衛力を強化したことが起源と伝わる。
1585年(天正13年)粉河寺は「紀州征伐」の時に根来寺や雑賀衆とともに豊臣秀吉に敵対するが、豊臣軍の攻撃で粉河寺は全山が炎上し、猿岡山城も落城する。
同年、豊臣秀吉から藤堂高虎が紀伊国粉河1万石を与えられ猿岡山城に入城する。
高虎は猿岡山城を改築して居城とするが、1595年(文禄4年)伊予宇和島に7万石で移封されると、まもなく猿岡山城は廃城となる。

 


<登城記録>
2019年7月5日(金)
11時25分

紀伊太田城から車で約30分で粉河寺の観光駐車場に着いた。

目前に見えている山が猿岡山城跡で、現在は秋葉公園として整備されている。

ここから徒歩で登城する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

猿岡山城へは粉河寺の参道より登城する予定であったが、駐車場の管理人に聞くと、この場所からは秋葉公園の南側の遊歩道の方が近いらしい。

県道7号線を南に向かって歩くと、登城口はすぐに見つかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

緩やかな遊歩道。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山頂へは5分もかからないが、久しぶりの好天に恵まれて汗だくになってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

展望台より、紀の川下流域に広がる和歌山平野の眺望。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

山頂の曲輪には猿岡城の遺構らしきものは何もない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石碑と案内板がポツンと建っているのみ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帰りは粉河寺の方へ下りて、参道を通って駐車場へ戻る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

11時25分

猿岡山城の登城を終了。

暑さのせいか、あまりテンションの上がらない登城であった。

 

小太郎 * - * 14:49 * comments(0) * -

紀伊太田城 日本三大水攻めのひとつ「太田城水攻め」の舞台

<城郭データ>
■ 所在地:      和歌山県和歌山市太田
■ 築城主:      紀俊連
■ 築城年:      延徳年間(1489年~1492年)
■ 主な城主:   紀氏・太田氏
■ 廃城年:      天正13年(1585年)
■ 城郭構造:   平城
■ 遺構:         移築現存門

 

<歴史>
紀伊太田城は延徳年間(1489年~1492年)紀伊国北部を支配していた紀伊国造第64代・紀俊連が築城したと伝わるが、詳細については現在も不明。
その後、1576年(天正4年)太田城は雑賀衆の一派である宮郷衆の首領・太田源太夫によって修築され、太田党を中心とする宮郷衆の本拠地となった。
1577年(天正5年)織田信長は敵対する本願寺顕如に加勢する雑賀衆を攻略するため、雑賀衆の本拠地である雑賀城に侵攻を開始する。
この時、宮郷衆は信長に従って織田軍の先導役を務めた。
雑賀衆は織田軍に対して奇襲戦法で対抗して一度は撃退することができたが、織田軍の再度の攻撃に耐えきれずに降伏する。
翌1578年(天正6年)織田軍が雑賀から撤退すると、雑賀衆は宮郷衆に報復を開始して紀伊太田城を約1か月にわたり包囲するが、守りが堅く落城させることはできなかった。(第一次太田城の戦い)
信長が「本能寺の変」で自害した後、1584年(天正12年)徳川家康羽柴秀吉の間で「小牧・長久手の戦い」が起こり、家康は太田党や雑賀衆・根来衆を味方につけて羽柴方の岸和田城を攻めさせた。
翌1585年(天正13年)秀吉は家康と和睦すると、約10万の軍勢を指揮して「紀州征伐」を開始し、雑賀衆や根来衆の拠点を次々と陥落させる。
紀伊太田城には太田党と根来・雑賀衆の残党を合わせて約5千の兵が籠城した。
秀吉は城の周囲に総延長6キロメートルにも及ぶ堤防を築いて水攻めを行うと、1ヵ月後には城主・太田宗正(左近)をはじめ53名が自害して降伏開城した。
(第二次太田城の戦い)

 


<登城記録>
2019年7月5日(金)
10時10分

JR和歌山駅東口にほど近い場所に建つ浄土宗寺院の来迎寺に到着。

同地には太田城の本丸があったとされている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

周辺は宅地化されており、太田城の遺構を確認できないが、来迎寺の境内には城址碑が建てられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

JR和歌山駅の東側ロータリーには、羽柴秀吉によって水攻めにされた時の城主・太田左近の石像が建っている。

想像していた石像のイメージよりかなり小さく、お地蔵様が台座の上に乗ったような感じであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

JR和歌山駅の西へ約800メートルの辺りに建つ大立寺まで移動する。

文禄年間(1592年~1596年)の創建で、薬医門型式の山門は太田城の山門を移築したものと伝えられている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

来迎寺から北東に約600メートル付近には、太田城が羽柴秀吉によって水攻めにされた時の「水攻め堤跡」が残っている。

きのくに信用金庫出水支店の裏側から撮影。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10時55分 

次の予定の猿岡山城へ向かう。

 

 

 

小太郎 * - * 14:44 * comments(0) * -

安田城 前田利家が築いた「富山の役」の前線基地

<城郭データ>
■ 所在地:        富山県富山市婦中町安田
■ 築城主:        前田利家
■ 築城年:        天正13年(1585年)
■ 主な城主:     前田氏
■ 廃城年:        慶長年間(1596年~1615年)
■ 城郭構造:     連郭式平城
■ 遺構:           土塁・堀

 

<歴史>
1585年(天正13年)羽柴秀吉が富山城に拠る佐々成政を攻略した「富山の役」の際に、富山城を見下ろすことができる白鳥城を本陣とするが、安田城はその白鳥城の出城として築かれ、前線基地として機能する。
安田城には前田利家の家臣・岡嶋一吉が入城し、成政の降伏後も引き続き前田氏が領有するが、慶長年間(1596年~1615年)には使命を終えて廃城となる。

 


<登城記録>
2019年6月23日(日)
16時30分

呉羽山丘陵の山頂にある白鳥城から、山麓の安田城資料館に移動。

車では丘陵を迂回するために約15分程かかるが、白鳥城から南に直線距離にして約2キロメートルしか離れていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

安田城は周囲を分厚く高い土塁で囲まれた本丸と周囲を低い土塁で囲まれた二の丸、更に二の丸西側に「右郭」と呼ばれる曲輪で構成され、各曲輪の周囲を水堀が巡らされた縄張りとなっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

資料館前から土橋を通って南北に細長い右廓へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

右郭から二の丸へ。
二の丸の周囲は低い土塁で囲まれているが、それ以外の遺構は特に見当たらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

二の丸から木橋を通って本丸へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
本丸の周囲は重厚で高さもある土塁で囲まれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

土塁に備えられている階段を使って土塁上部へ上る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸の内部も広いが、それ以上に幅の広い巨大な土塁が印象に残る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

16時50分

滞在時間は約20分。資料館を見学して安田城の登城終了。

 

小太郎 * - * 23:08 * comments(0) * -

白鳥城 越中の戦国時代終焉の舞台

<城郭データ>
■ 所在地:        富山県富山市吉作
■ 築城主:        神保長職
■ 築城年:        天文12年(1543年)頃
■ 主な城主:     神保氏・佐々成政
■ 廃城年:        慶長年間(1596年~1615年)
■ 城郭構造:     山城
■ 遺構:           曲輪・土塁・堀切・堅堀・井戸

 

<歴史>
白鳥城は越中国守護代・神保長職が上杉謙信の越中侵攻に備えて、1543年(天文12年)に築かれた富山城の詰城として築城されたと推測される。
富山平野を東西に二分する呉羽山丘陵の山頂にあり、東西を見渡せる軍事上の要衝であった。
1560年(永禄3年)上杉謙信の攻撃により長職は富山城を追われ、白鳥城も上杉氏の支配下にはいる。
1578年(天正6年)謙信が没すると、織田信長の家臣で北陸方面攻略を任された柴田勝家佐々成政が越中国に侵攻を始める。
越中国が信長の領土となると、佐々成政が富山城に入城し、白鳥城も富山城の支城として機能する。
1585年(天正13年)羽柴秀吉が佐々成政を攻めた「富山の役」の際には、富山城を見下ろすことができる白鳥城に羽柴軍の織田信雄が陣を構えた。
成政の降伏後は前田利家が白鳥城を領有して城将を置くが、慶長年間(1596年~1615年)に廃城となる。

 


<登城記録>
2019年6月23日(日)
15時6分

松倉城より車で約50分で白鳥城への登城口の一つである「しらとり広場」に到着。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

収容台数が約20台の無料駐車場があり、展望台やトイレが完備されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

駐車場の奥に「白鳥城址」の石碑が建っており、そこから遊歩道が通じている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15時15分

ここから白鳥城の東端に置かれた東出丸を目指して登城開始。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

組木の階段を上がると、すぐに東出丸に着く。

目指すというほどのことではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東出丸から三の丸に向かって尾根道を暫く歩くと、大きな堀切が残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その堀底を上がっていくと、予定していた三の丸ではなくて二の丸に着いた。

三の丸を見逃してしまったようだ。

二の丸の周囲には土塁がよく残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二の丸の片隅には井戸跡の標柱があるが、付近に井戸跡らしき遺構は見つからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15時25分

二の丸から本丸へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸は本丸と本丸下曲輪の上下二段に分かれており、本丸の一段高い場所に天守台跡が残っているが、実際に天守が築かれていたかは不明。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸からの東側の眺望。

眼下には富山平野を望むことができるが、木々が邪魔で眺望はあまり良くない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸から本丸下曲輪へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸と北二の丸を分断する堀切には木橋が架かっていた。

藪がすごくて堀切の形状を確認することはできない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸の北側に置かれた北二の丸。
長方形の曲輪の一部には土塁が残っている。
本丸の北側を見張る出丸の機能を有していたと考えられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北二の丸から本丸を経由して西一の丸へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西一の丸の先の道端には西二の丸跡の標柱が建っているが、藪が生い茂っており、周囲に曲輪らしき遺構は見つからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西二の丸の先の堀切。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15時48分

堀切の西側に置かれた西出丸。
規模は小さいが、ここが白鳥城の最西端になる。

ここで折り返して駐車場に戻る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二の丸を越えた辺りで、偶然に三の丸跡の標柱を見つける。

周囲に曲輪らしきスペースはなく標柱も藪に覆われていたため、見つけるができなかったのも当然である。

後続の人のために、標柱が見える程度に藪を刈っておいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東出丸から組木の階段を下りて登城口まで戻り、駐車場に隣接する展望台に上る。 

視界を遮るものはなく、東側の眼下には富山平野が一望できる。
当時はここから富山城を見下ろすことができたようであるが、現在は周囲にビルが建ち並んでいるため、確認することはできない。
天気が良ければ、遥か遠くに雄大な立山連峰を望むことができるらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

16時10分

白鳥城の登城を終えて「富山の役」の際に白鳥城の支城として築かれた安田城に向かう。

 

小太郎 * - * 23:07 * comments(0) * -

松倉城 越中国守護代・椎名氏の難攻不落の巨大山城

<城郭データ>
■ 所在地:        富山県魚津市鹿熊字城山
■ 築城主:        普問氏
■ 築城年:        建武2年(1335年)頃
■ 主な城主:     桃井氏・椎名氏・上杉氏
■ 廃城年:        慶長年間(1596年~1615年)
■ 城郭構造:     連郭式山城
■ 遺構:           堀切・土塁

 

<歴史>
松倉城は南北朝時代の1335年(建武2年)頃に越中国守護・普問(井上)俊清によって築かれ、その後は足利氏一門の桃井氏が在城したと伝わる。
戦国時代には越中国守護・畠山氏の守護代・椎名氏の居城であり、越中国東部の政治・軍事の中心であった。
永禄年間に椎名康胤が家督を継いだ頃に、富山城を拠点に越中国西部より勢力を拡大してきた神保長職の侵略を受けて次第に圧迫されるようになった。これに対して康胤は越後の上杉謙信と同盟を結んで援軍を要請し、神保氏の侵攻を退けた。
しかし、1568年(永禄11年)康胤は突如として甲斐国の武田氏の調略に応じて上杉氏を離反する。
これにより上杉軍の猛攻撃を受けて、松倉城は落城する。(松倉城の戦い)
以後、松倉城は上杉氏の支配下に置かれ、上杉氏の重臣・河田長親が城代を務めた。
1578年(天正6年)上杉謙信が没すると、織田信長の家臣で北陸方面攻略を任された柴田勝家佐々成政が越中国に侵攻。
1582年(天正10年)織田軍は領内の諸城を次々と落とし、魚津城の落城直後に松倉城も落城するが、その直後に「本能寺の変」の報が届いたために織田軍は撤退し、すぐに上杉軍が城を奪回した。
翌年、魚津城は態勢を整えた佐々成政により再び包囲され、城将・須田満親は降伏開城する。
これにより上杉氏による支配が終焉し、越中一国は佐々成政が治めることとなる。
この頃から越中国東部の中心は平城の魚津城に移り、松倉城は慶長年間(1596年~1615年)に廃城となる。

 


<登城記録>
2019年6月23日(日)
13時25分

松倉城の城址駐車場に到着。

約10台は駐車可能なスペースがあるが、訪問客は誰もいないようで、いつものように今回も一人で登城することになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
松倉城は魚津市南部にある標高430メートルの松倉山の山頂に築かれている。
麓からの比高は約300メートルもあるが、山頂の本丸の直下まで舗装道が整備されており、終点の城址駐車場まで車で登ることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

グーグルマップで「松倉城本丸跡」と入力すると角川ダム経由の道を案内してくれるが、途中に分岐点があるので注意が必要。(上図の赤丸の場所)

分岐を右側の細い道を登っていく。後は道なりに進むが、道標もあって終点まで迷うことはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

対面通行はできないが、道路は舗装されて道幅も極端に狭い箇所はない。

分岐点からは約3.3kmもあるが、ゆっくり通行すれば特に問題なし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

13時38分

登山用の服装とトレッキングシューズに着替えて駐車場の奥に建つ「松倉城主之碑」の脇から本丸に通じる階段を上って登城開始。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この辺りの地名は「鹿熊」と言い、鹿とか熊とかが出没しそうな感じなので、ビビりな私は熊鈴2つと熊撃退スプレーを持っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

階段を上るとすぐに本丸への道標があるが、この背後は本丸と二の丸を隔てる堀切になっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

13時41分

道標を右に進んで本丸へ。駐車場からの所要時間は約3分。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

駐車場と本丸の距離感は下記の通り。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

松倉城は本丸の配された山頂部から南北に伸びる尾根上を空堀で区切り、複数の曲輪を並べた連郭式山城となっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北の方角には富山市街地と富山湾が見えており、さらにその向こうには能登半島がうっすらと見えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本丸の奥へ進むと、松倉城最南端の曲輪である八幡堂が見えている。

本丸とは深い堀切で仕切られている。堀切に下りる道はあり、八幡堂まで行けそうであったが、前日の雨の影響で地面が滑りやすくなっており、藪も多いため今回は断念した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

13時56分

本丸から二の丸・三の丸方面へ移動する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二の丸へ。広さはまずまずの曲輪。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二の丸と三の丸との間の堀切。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三の丸へ。

広い曲輪ではないが、周囲の一部は土塁で囲まれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三の丸のさらに北側には四の丸の曲輪がある。

縄張り図には記載されていないが、四の丸の標柱が建っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

14時12分

四の丸のすぐ下には舗装道が通っている。

この道を通って駐車場まで戻る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

14時16分

この後は松倉城の北西側にある「大見城平」方面へ下りる予定であったが、雲行きが怪しくなってきたので断念することにした。

大見城平は広大な削平地で、有事の際の城主や家臣の屋敷であったという。

是非とも訪れてみたかったが、この薄暗い雨天の山中に一人でいるのはあまりにも心細い。松倉城の登城を終えて、次の予定の白鳥城へ向かう。

 

 

小太郎 * - * 23:06 * comments(0) * -
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